サンドウィッチマン「死んでお詫びするしか」思い詰めた過去も…NHK出禁から奇跡の大躍進「愛される秘密」 (2/3ページ)
だからスタッフ受けがいいんです」(前同)
そんな彼らの笑いの原点は、ともに汗を流した高校のラグビー部にある。
「女子高に忍び込み、校庭の真ん中にラグビーボールをトライしたり、練習場の隣にある池で竹槍を使って人面魚を捕獲しようとしたり」(テレビ誌記者)
と、ネタのような生活を送っていたという。高校卒業後、富澤がサラリーマンだった伊達を3年かけて口説き、コンビを結成する。
「1998年に上京すると、板橋区の家賃6万円台のアパートに同居。その後10年間、人は布団を並べて寝ていたそうです」(前同)
■バラエティ番組を見るたび“爆弾が落ちろ”とつぶやいていた
劇場ではウケるが、テレビ局からはお呼びがかからない日々が続いた。
「業務スーパーで、もやしを2キロ買って、毎日、もやし丼を食べていたそうです。幸い、伊達の実家から米が送られてくるから助かったとか」(芸能記者)
当時の心境は、どんなものだったのだろうか。
「富澤は、バラエティ番組を見るたび“爆弾が落ちろ”と、つぶやいていたとか。“今、テレビに出ている芸人が全員死ねば、俺らが出られるんじゃないか?”と、本気で思い詰めていたそうです」(前同)
一方の伊達は、どうか。
「“もし、そうなっても、俺らの出番はないよ”と心の中で思っていたそう。よく気分転換に、自転車を2人乗りして隣り町まで行ったと語っています。“うまいコロッケ屋を見つけたから行ってみようぜ”などと、誘っていたとか」(同)
29歳のとき、「この世界に誘った責任」を感じた富澤は、解散を持ちかけた。
「彼は“死んでお詫びするしかないのか”と、自殺まで考えていたと、後に語っています」(同)
終わりの見えない地獄の日々。伊達は、こう返した。
「彼は“まだ解散するまでの挑戦をしていない。そこまで俺たち、立っていないんじゃないか”と。そして、2名が30歳を迎える残り1年をタイムリミットとして、“どんなライブにも出よう”と決意したそうです。