洒脱でラップ調な狂歌で藩政を批判…江戸時代の高僧・仙厓義梵が詠んだ心意気 (2/4ページ)

Japaaan

得度を受けた仙厓(イメージ)

やがて19歳となった明和5年(1768年)、武蔵国久良岐郡永田(神奈川県横浜市)の東輝庵を訪れ、月船禅彗(がっせん ぜんすい)のもとで修行しました。

研鑽の末に印可を受けた仙厓は、天明元年(1781年)に禅彗が亡くなると美濃へ帰ってきます。

「ようお戻り下さいました。当山では住職が亡くなり後継者を誰にするか相談していたところ。どうかお受けいただけますまいか……」

これは渡りに船……古巣のためにご奉仕しようと思ったら、河村甚右衛門(かわむら じんゑもん)なる武士が横槍を入れてきました。

「仙厓殿は農民の子と聞く。武士がそんな住職に頭を下げられる訳がなかろう!」

僧侶が尊いのは仏道に帰依して功徳を積まれたからであって、生まれた家柄は関係なかろう……とは思うものの仕方ありません。結局、住職の話は流れてしまったのでした。

よかろうと 思う家老は 悪かろう…大垣藩政を批判する狂歌

そんなことで居づらくなってしまったのか、清泰寺を出た仙厓が大垣に滞在していた時のこと。現地を治めていた大垣藩では、新任の家老が失態を犯したため財政難に陥っていました。

「まったく今度のご家老様ときたら……」

聞けば藩主様のお気に入りで、それがために抜擢されたというのです。今までの家老はかわいそうに、何の落ち度もないのに更迭されてしまったとか。

元の家老に戻してほしいと誰もが思っていましたが、それで聞いてくれるなら、そもそもこんな人事はあり得ません。

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