なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】 (3/7ページ)
最初に熊野の御幸を行った宇多法皇(写真:Wikipedia)
白河法皇の後、保元の乱で敗れ配流先の讃岐で憤死した崇徳上皇を除けば、鳥羽上皇21回・後白河法皇34回・後鳥羽上皇28回と、ずば抜けて多い熊野御幸を行っています。
白河・鳥羽・後白河・後鳥羽はみな院政を敷いた上皇として知られています。なにやら熊野御幸が、院政と深い関係にあることに気づかされるでしょう。
なぜ上皇たちは熊野御幸を行ったのか 院政を開始した白河・鳥羽上皇が火付け役院政は、簡単に述べると天皇が皇位を後継者に譲り、上皇となって政務を天皇に代わり直接執ることです。上皇(出家して法皇)のことを「院」と呼んだため、院政と称されます。
様々な説がありますが、院政は膨らみすぎて形骸化した、藤原北家による独占的な摂関政治からの脱却にあったことは間違いないでしょう。
摂政は、女性もしくは幼少の天皇を扶ける役職、関白は成人した天皇の代わりに政務を行う役職です。ここには、天皇の父である上皇は含まれません。