なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】 (6/7ページ)
承久の乱で鎌倉幕府と戦った後鳥羽上皇(写真:Wikipedia)
武士勢力と激しく対立した後白河法皇ですが、結局は武家政権を樹立した源頼朝に屈服した形になりました。
そんな祖父を見ていた後鳥羽上皇は、自らも弓馬の道に精進し、直属の武士団・西面(さいめん)の武士を組織するなど、院の勢力挽回に意欲を示した皇族でした。
そして、1221(承久元)年、後鳥羽上皇は北条義時追討のために挙兵し、承久の乱を起こします。その3ヵ月前に上皇は最後の熊野御幸を行っているのです。
熊野は、宗教的な聖地でありながら、多くの僧兵を抱えていた武力勢力でもありました。承久の乱では、熊野の僧兵たちが上皇方として戦い、熊野権別当小松快実父子が討ち死にしています。
後鳥羽上皇の常軌を逸したともいえる熊野御幸。もちろん上皇の信仰心に基づいての行動であったのでしょうが、その裏では、熊野の軍事力の掌握という面も否定できないのではないでしょうか。