北条?江間?小四郎義時が名乗った苗字の移り変わりを紹介【鎌倉殿の13人】 (2/5ページ)

Japaaan

※ただし『吾妻鏡』では四郎(文脈から時政ではなく、義時を指していると断定可能)と書かれていることも。

元服して北条小四郎義時と改名(時期および幼名は不詳)、やがて北条の土地に隣接する江間郷に所領を与えられて分家を立て、江間小四郎義時と名乗ります。

頼朝・万寿(頼家)に随行する義時。時期的には江間のはずだが、見る者の解りやすさを考慮したものと思われる。歌川貞秀「鎌倉右幕下焼香場の図」

『吾妻鏡』では治承5年(1181年)4月7日に「江間四郎」として言及されているため、恐らく源頼朝(演:大泉洋)が挙兵した直後の武功によって時政が与えられた所領を分けてもらったのでしょう。

あるいは(寝所の警固を任されるほど)頼朝のお気に入りだった義時が、直々に江間の所領を賜わって父から独立したとも考えられます。

なお兄の宗時は挙兵から間もない石橋山の合戦(治承4・1180年8月23~24日)で敗死しており、時政は北条の家督を義時ではなく、安元元年(1175年)に生まれた弟の五郎(後に北条時連⇒時房

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