忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・後編【どうする家康】 (3/7ページ)
その後、秀吉は同じく織田重臣の柴田勝家(しばた かついえ)を滅ぼして織田家を掌握、家康を西から脅かします。一方の東は南関東の雄・北条氏直(ほうじょう うじなお)が勢力をのばしており、家康は北条との同盟を堅持して秀吉との対決姿勢を整えます。
康景は天正11年(1583年)に駿河国江尻城(現:静岡県静岡市)の城代として背後を固めました。
本当は最前線(西)へ出たかったでしょうが、めったな者に背中は預けられません。康景が守っていたからこそ、家康は秀吉との対決に専念できたのでしょう。
ついに城持ち大名となった康景やがて小牧・長久手の合戦(天正12・1584年3月~11月)を経て秀吉と和睦した家康は、天正14年(1586年)に秀吉の妹である朝日姫(あさひひめ)を娶ります。
康景は朝日姫を迎えにいくため大坂城へ赴き、秀吉から貞宗(さだむね。鎌倉時代の刀工、正宗の養子か)の銘刀を与えられました。
またこの年、康景は甲賀忍者(近江甲賀の士83騎と家士24名)の統率を任され、彼らの扶持をまかなうため三河遠江の両国において2,200貫の知行を拝領。
家康の天下取りに重要な諜報活動も担うことになり、徳川家中においてますますその存在感を高めていったのです。