忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・後編【どうする家康】 (4/7ページ)
奮闘する天野三郎兵衛康景。武勇だけでなく、貴人を饗応できる教養も備えた両道の士であった。歌川芳虎「後風土記英雄伝」より
天正18年(1590年)に秀吉が北条征伐の兵を興すと康景は駿河国清見寺にて彼らを饗応。のち小田原に布陣していた家康と合流します。
そして北条氏が滅亡すると家康はこれまでの東海5ヶ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)から関東への国替えを命じられ、康景もこれに同行。後に下総国香取郡大須賀(現:千葉県成田市)に3,000石の所領を賜りました。
やがて秀吉が亡くなり、慶長5年(1600年)に上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を討伐する兵を興した時は大坂条西丸で城代を務め、関ケ原の合戦では本拠地・江戸城の御留守居を務めます。
康景が守っていてくれるからこそ、存分に戦える……かくして関ヶ原で勝利を収めた家康は慶長6年(1601年)、富士駿東二郡のうち1万石を康景に下賜。ここに康景は大名となり、駿河国興国寺城(現:静岡県沼津市)を預かったのでした。
更に慶長7年(1602年)には家康から康の字を拝領して康景と改名。奏者番(そうじゃばん。将軍と家臣の取り次ぎ役)を務めるなど徳川政権の中心を担ったのです。