古来の神道と外来の仏教 神と仏はどんな対話をし神仏習合を遂げたか (3/3ページ)
伊勢神宮外宮の宮司・度会家行(1256~1351?)の伊勢神道、朱子学を基調とした山崎闇斎(1619〜1682)の垂加神道などが「神主仏従」を説き仏教に反旗を翻した。平田篤胤(1776〜1843)に至っては仏教だけではなく儒教さえも否定し、外来文化以前の純然たる日本の信仰を取り戻そうとした。
これらの反仏教思想は、明治のいわゆる「廃仏毀釈」の遠因となっていく。この悪名高い文化破壊行為は、国民の意識を天皇の下に統一することを目論んだ明治政府が発した神仏分離令などが発端となった。僧侶の支配下にあった神職たちが政府の尖兵となって、全国で仏像が破壊され寺院が焼き払われたのである。政府の狙いはあくまで宗教的な意味合いに留まるもので、実際に寺院の焼き討ちなどの暴挙に及ぶことは想定外だったという。政府は仏教に抑えつけられていた神社・神職の鬱積を理解していなかったようだ。奈良では興福寺も被害に合い多くの文化財が犠牲になった。平和的な神仏習合にも仏・神の上下関係による軋轢はあったことは知っておくべきだろう。
このような仏教による神道支配の構造があったとはいえ、その一方では仏教が庶民に広まったきっかけにもなったともいえる。神と仏の対話は、特定の宗教については「なんでもあり」に見える日本人の宗教心の根本となっているのではないか。
■神仏習合と日本人の宗教心
仏教は国家鎮護のために招来されたもので庶民には遠い存在だった。庶民にとって敬うべき宗教的対象は鎮守の森に鎮座する神様である。それが神仏習合を通じて、庶民の信仰に仏教が浸透していった。神道側から見れば仏教の庶民侵攻にも見えるが、死をケガレとする神道が提供できない死後のケアを仏教が担ったのは大きい。そして当の庶民は神仏の区別なく崇めていた。神・仏の争いはもっぱら僧侶や神職によるもので、庶民の世界において神仏は概ね平和裏に手を携えて独自に発展した。人々は檀家であり氏子であり、村の住職や宮司を同等に敬っていたのである。
日本人はクリスマスもハロウィンも抵抗なく取り入れる。外国から見れば節操の無い無宗教に見えるだろう。しかしそれは現代の日本人に伝わっている神仏習合という宗教心の現れなのかもしれない。
■参考資料
■拙稿:%0A" target="_blank"江戸時代の檀家制度 明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈 そして現代の神仏習合
■鵜飼秀徳「仏教抹殺」文藝春秋(2018)
■法相宗大本山興福寺