百年前も「国葬」の是非で大論争!大隈重信「国民に熱烈支持された理由」 (2/4ページ)

日刊大衆

 重信は翌年に「明治」となる慶応三年(1868)、長崎でフルベッキを校長とする洋学校の到遠館開設の準備を進め、その年の一二月に発足させた。

 到遠館では英語のみならず、政治や経済、理学なども教え、今の大学の模範となった学校だ。

 重信は後に東京専門学校(早稲田大学)を開設するが、この到遠館の運営に携わったことも大学経営に少なからず繋がったといえる。

 一方、重信が到遠館を発足させた一二月には、一九日付で明治天皇より「王政復古」の大号令が発せられ、明治新政府が発足した。

 重信はすぐさま新政府に出仕。明治二年(一八六九)七月に大蔵大輔(大蔵次官)に就き、やがて参議(内閣構成メンバー)として新政府の重責を担った。

 明治五年(一八七二)一一月九日、彼が断行した改暦には、新政府の財政を担った責任者らしい逸話がある。

 当時、国家予算に占める人件費の割合は極端に高かった。一方、それまで使用してきた旧暦には閏月があり、余計な給料を支払わなければならなかった。そこで閏月のない西洋暦への改暦に踏み切ったのだ。

 しかも、明治五年一二月三日を翌年の元日としたため、一二月はわずか二日間となり、その二日分の給料もカット。重信は、閏月と一二月の計二か月分の人件費カットに成功したわけだ。こうして彼は現在の暦を初めてわが国にもたらした人物となった。

 明治一四年(一八八一)には元長州藩士伊藤博文ら薩長出身の参議によるクーデター(明治一四年の政変)で政界を追われるが、翌年、立憲改進党(のちの進歩党)を結成。政党政治家としての道を歩むことになる。

 彼の改進党は帝国議会が発足すると国民の支持を集め、発言力を伸ばしていった。そして明治三一年(1898)六月、重信は旧土佐藩士板垣退助の自由党と進歩党(当時)を合同させて憲政党を結成。

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