百年前も「国葬」の是非で大論争!大隈重信「国民に熱烈支持された理由」 (1/4ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 この秋、安倍晋三元首相の葬儀を巡り、国論が二分した。

 ちょうど一〇〇年前の大正一一年(1922)にも元首相の葬儀について「国葬」にすべきかどうか、当時の新聞で話題になっていた。それが大隈重信。早稲田大学の創設者で知られる明治の政治家だ。

 当時の新聞によると、その年の一月一〇日に八三歳で死去したあと、「国葬」とする話が持ち上がったが、安倍元首相のときとは逆に、当時の内閣(高橋是清首相)の反対で実現しなかったという。

 その代わり、一七日に「国民葬」が盛大に催された。その「国民葬」では葬儀場となった日比谷公園(東京都千代田区)に「二〇余万人」(『大阪朝日新聞』)が参集。

 一説によると、早稲田の大隈邸(新宿区)から日比谷公園、さらに埋葬先となった護国寺(文京区)の沿道が、明治天皇の大葬に次ぐ一〇〇余万人の人々で埋め尽くされたという。

 彼はなぜ、このように国民から熱烈な支持を得られたのか。

 また、その生涯にはいくつかの「初」がつき、記録づくめの人生でもあった。その人生を振り返ろう。

 重信は天保九年(1838)、佐賀藩で砲術長を務めた信保の長男に生まれた。七歳で藩校「弘道館」に入ったが、儒教を中心とする教えに不満を抱き、改革を試みて一八歳のときに退校(退学)。とはいえ、学業はできた。かなりの秀才だった。

 その藩校時代、二歳年長の従兄弟の勉強の非効率さを指摘し、「おまえたちの一年分の勉強を自分は一日でやってみせる」と豪語したという逸話も残る。

 ところで、幕末の佐賀藩には鍋島閑叟という名君が現れ、藩を挙げて近代化に取り組んでいた。

 藩内で秀才の誉れ高かった重信はむろん、その目に止まり、閑叟が呼び寄せたオランダ系アメリカ人フルベッキの元で学ぶ機会を得た。

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