百年前も「国葬」の是非で大論争!大隈重信「国民に熱烈支持された理由」 (3/4ページ)
増税問題を巡り、議会(政党)との連携が取れずに匙を投げた第三次伊藤博文内閣に代わり、日本初の政党内閣(議会で多数を占める政党を与党とする内閣)といえる第一次大隈内閣( 隈板内閣ともいう)を組閣。
ただし、政策の擦り合わせを後回しにした合同だったため、党は自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂し、内閣は短命に終わった。
その後、第一次世界大戦が勃発した大正三年(一九一四)、重信は憲政本党系の議員らを与党とする第二次大隈内閣を誕生させた。この内閣が総辞職した当時、重信は七九歳。当時の首相の最高齢に当たり、その記録は今日まで破られていない。
このように重信は薩長を中心とする藩閥政治家(代表が伊藤博文)とは別のキャリアを歩み、「民衆政治家」と評されるに至った。
■“メロン”を普及させた第一人者でもあった!
そうした彼の政治家としてのイメージが民衆を動かし、「国民葬」の熱狂として現れたわけだが、それはまた、民衆を意識した彼の政治手法の成果ともいえる。
たとえば、隈板内閣誕生の際、重信が参内して天皇から組閣の命を受けた重大な日に、東京専門学校の校友会での講演会が予定されていた。
組閣という一世一代の晴れ舞台だけに、予定をキャンセルしてもよかったのだが、彼は一時間遅れで駆けつけ、「約束したことに背いたことはない」と発言し、拍手喝采を浴びた。
また、彼の豪胆さも人気の秘訣だった。立憲改進党が発足したのち、彼は一時、脱党して黒田清隆(元薩摩藩士)内閣で副首相格の外相に就任した。その外相時代、彼の外交方針に反発した国家主義者の青年に、馬車で官邸入りするところを狙われ、爆弾を投げつけられたのだ。
重信は右足を失い、生涯、義足生活を続けるが、「右脚切断後の後遺症として断続的に起こる痛みに耐え、驚くべき精神力で」(伊藤之雄著『大隈重信』)遊説に回ったという。
彼が民衆を意識していた逸話は他にもある。晩年の話だ。