北条義時に毒を盛った“のえ”が平六と共謀し…北条泰時との家督争い「伊賀氏の変」とは【鎌倉殿の13人 後伝】 (4/5ページ)
伊賀兄弟が変な気を起こして……私から説得しますよ」
「あなたがそう言うなら、責任を持ってお願いしますよ」
「チッ、ばれたか」政子に睨まれてしまい、手を引く平六(イメージ)
鎌倉で執権に対抗し得る勢力を持つ三浦一族が手を引いたとなれば、もう伊賀一族に勝ち目はありません。こうして武力衝突は未然に防がれ、“のえ”はじめ伊賀一族は各地へ流罪に。
政所執事であった伊賀光宗は信濃国(現:長野県)へ配流、52の所領をことごとく没収されました。ほか伊賀朝行(ともゆき)と伊賀光重(みつしげ)は鎮西(九州)へ流されます。
そして“のえ”こと伊賀氏は伊豆国北条へ流され、やがて姿を消しました。
晴。伊豆國北條飛脚到來。右京兆後室禪尼。去十二日以後病惱。自昨日巳刻及危急之由申之。
※『吾妻鏡』元仁元年(1224年)12月24日条
【意訳】晴れ。伊豆国北条から飛脚が到着。義時(右京兆)の後家尼(のえ)が12月12日に発病し、12月23日の午前10:00ごろ危篤に陥ったとのこと。
かくして「伊賀氏の変」は終結。名実ともに俺たちの泰時が鎌倉幕府の第3代執権に就任したのでした。
終わりに以上、義時の死後に泰時が家督を継ぐまでの流れを紹介してきました。