わたしたちが知らないスーホの白い馬の真実と当時のモンゴル (3/8ページ)
1961(昭和36)年に、『スーホ』を初めて日本に紹介したのは、かつての満州国生まれの児童文学者で翻訳家の大塚勇三(1921〜2018)だった。そしてそれは、『馬頭琴』という昔話をもとに「再話」したものだった。しかも、1980(昭和55)年から2004(平成16)年まで採用されていた教科書の『スーホ』で挿絵を担当していた赤羽末吉(あかばすえきち、1910~1990)もまた、若い頃に満州に渡り、15年ほどの滞在経験を有していた。
大塚や赤羽を含む「渡満体験者」の日本人にとって、満州とは、日本政府によって1938(昭和13)年から推進された「満蒙開拓団」という、今日でいう「移民政策」において喧伝されたイメージ、それは狭苦しく閉塞的な日本とは異なり、土地そのものにも、人間関係にも、一切の遮蔽物はない。無限に広がる草原の向こうに沈む真赤な太陽…といった大自然のみならず、自身の「新しい未来」が開ける、希望に満ちた「別天地」だった。それゆえ大塚が見出し、「再話」した『スーホ』の奥底には、第2次世界大戦の敗戦によって、彼らの夢は一方的に断たれてしまった。再び、狭苦しい日本という「場所」に戻らざるを得ない。一か八かの人生の賭けを行なった自分。そしてさまざまな辛いこと、苦しいことはあったものの、日本とは全く異なるモンゴルという「場所」への郷愁と、日本に戻ってからはもはやその地を、かつての気概と活気あふれる状況で踏む/生きることが叶わないという「寂しさ」が秘められていると推察される。
一方の『馬頭琴』は、若い頃に内モンゴル師範学校で学んだ経験がある中国人作家の塞野(セーイエ、1932〜)によるものだ。1956〜58(昭和31〜33)年に中国国内で出版された、3冊の民話集に収められていた。1951(昭和26)年、塞野が内モンゴル自治区のドロンノールで教員をしていた頃に偶然、日本で言う「流し」のような、歌を歌いながら各地を経巡る年老いたモンゴルの芸人から、「馬頭琴」の歌を聞いた。そしてそれを、幾度もの「推敲」「変更」を重ね、先に挙げた「民話」の形になしたものだという。
■スーホの白い馬と馬頭琴の違い
『馬頭琴』と『スーホ』の違いだが、前者では主人公は17歳、後者では少年。