どこまでも正直一筋!徳川家康を感心させた「仏の高力」高力清長のエピソード【どうする家康】 (2/3ページ)

Japaaan

永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)にかけて勃発した三河一向一揆の鎮圧でも武勇を奮う一方で、日ごろ信心深かったらしく仏像や経典などが戦火で失われぬよう保護に努めました。

保護された仏像(イメージ)

戦後は保護した仏像や経典をそれぞれ返還したため、人々は清長を仏の高力と呼ぶようになります。強いだけでなく、優しさも兼ね備えていたのですね。

その後も数々の武勲を重ねて武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市)に2万石を拝領。晴れて大名の仲間入りを果たします。

この時、武蔵国足立郡浦和郡(同市)に1万石の蔵入地を預けられました。蔵入地とは主君の直轄領で、現地の年貢はもちろん主君のものなのですが、実態としては預かった者が大部分を自由に出来たそうです。

多くの家臣たちがこれを役得(副収入)として財政に補填していた中で、清長はこれに一切手を付けず、上がった年貢を毎年きっちりと家康に上納しました。

「まったく、律義なヤツだ……」

家康は呆れるやら感心するやら。ただし年貢を受け入れる当局としては、手続きが煩雑化するので面倒がったのではないでしょうか。

「やれやれ、別に米が足りない訳でもないのだから、高力家で処理してくれた方が楽でよいのに……」

そんな清長の正直ぶりは朝鮮出兵(文禄の役。

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