戦国時代は「椅子取りゲーム」から始まった!「明応の政変」後のややこしい争乱まとめ【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

1518年、政権内部での争いなどもあって大内義興が領国に帰っていったことで、幕府は軍事面での支えを失う形になったのです。

これに乗じたのが、阿波に追われていた細川澄元でした。好機と見た彼は京へと攻め入り、細川高国を追い詰めました。

で、ここで裏切ったのが、将軍の細川義稙です。彼はなんと澄元の味方となったのですが、この争乱では高国が勝利を収めたため、澄元・義稙ともに阿波へ追い払われました。

その結果、細川澄元と足利義稙の二人は、京へ戻ることなく阿波で没します。

これでやっと、細川高国政権が幕政を単独で取り仕切る体制が整ったわけですが、争いはまだ続きます。

終わらない椅子取りゲーム

1521年、細川高国は11代将軍だった足利義澄の遺児・足利義晴を12代将軍に立てて、政権確立を果たします。

足利義晴木像(等持院・Wikipediaより)

ところが今度は、阿波で没した細川澄元の遺児である細川晴元が、三好元長とともに反旗の狼煙を上げました。二人は、あの足利義稙の遺児であり、義晴の弟にあたる足利義維を将軍の後継に立てて堺へと進出したのです。

世代を超えた将軍の椅子取りゲームで、もうめちゃくちゃです。細川晴元は高国を桂川原の戦いで撃破し、高国と義晴は近江坂本へ追いやられました。義維はそのまま堺にとどまって政務を行ったことから、堺公方と呼ばれるようになります(まだ将軍ではない)。

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