少年時代は知ってるけど…二宮金次郎(金治郎)こと二宮尊徳って何をした人なの? (2/4ページ)
寛政9年(1797年)には父・利右衛門が眼病を患ってしまい、金次郎が代わりとして酒匂川堤防工事の夫役(ぶやく。領主の命じる労役およびその人足)を務めます。
しかしまだ幼いため稼ぎが少なく、昼の土方仕事から戻ると夜は草鞋を作って売ったり仲間へ配ったりしていました。
寛政12年(1800年)には利右衛門が亡くなったため、金次郎は朝から薪を伐って売り、夜は草鞋を作って一家四人の生計を支えたのです。
享和2年(1802年)には母親の好も亡くなり、金次郎は16歳で幼い弟二人を養わねばなりませんでした。
このままではどうにもならないと判断した金次郎は、弟二人を母の実家である川久保家へ預け、自身は祖父である二宮萬兵衛(まんべゑ)の元に身を寄せます。
萬兵衛の元でも勤勉に働いた金次郎でしたが、この萬兵衛がたいそうケチで意地悪だったそうです。
日中さんざんこき使った金次郎が、寝る間も惜しんで夜中に勉強しているのを「灯りに使う菜種油がもったいない」といびりました。
だったら菜種を自分で作れば文句なかろう……と金次郎は堤防にアブラナを植えて油を搾り、それで灯りを確保します。
(萬兵衛だったら「油があるなら売って家計を助けろ」などと言いそうですが、どうでしょうか)
更には搾った菜種カスを肥料として、田植えに余って捨てられた苗を育てて米一俵の収入を得ました。
どんな境遇でも自分の事業を起こす才覚は、少年時代から努力した勉学によって磨かれたのでしょうね。
文化元年(1804年)になると萬兵衛の元を出た金次郎。親族の家を転々としながら余耕田で蓄財に励み、20歳となった文化3年(1806年)に生家へ戻りました。
