熟練の老将・柴田勝家はなぜ敗れたか?「賤ケ岳の戦い」の羽柴秀吉の知略を探る (2/3ページ)
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福井市にある柴田神社。柴田勝家を主祭神とし、妻の市が配祀されている
勝家と秀吉の両者が武力衝突に至ったのは、1582年12月のことです。秀吉が長浜城を落とし、岐阜城の織田信孝を降伏させたのがきっかけでした。
その後、秀吉軍は優勢で戦いを進めていきますが、戦いは4月まで長引いてきます。それまで雪のため動けなかった勝家も、ようやく出陣して近江柳ケ瀬まで進軍しました。
老将、知将に敗れるさらに、今度は信孝が岐阜で挙兵して秀吉に対抗し、秀吉は信孝討伐のために動き、するとその間に勝家や家臣の佐久間盛政に大岩山砦を攻めさせて岩崎山砦の高山右近も破らせて……と、まるで将棋のような攻め合いに発展します。
しかしここで秀吉は、近江北部戦線での敗北の報せを受けて、約50キロの道のりをたった5時間で引き返して佐久間盛政を攻める美濃大返しという荒業をやってのけます。
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このあたりから、勝家軍の勢いに陰りが見えてきました。盛政は賤ケ岳まで撤退したあたりで、前田利家が秀吉方に寝返ったのです。