「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【前編】 (4/5ページ)
この報を受けた家康は、3万の軍を率いて江戸を出陣、石田三成がいる大垣城に向かいます。一方、石田三成は大垣城を出て、関ケ原に入ると、大谷吉継・毛利秀元・宇喜多秀家ら西軍の諸大名は続々と関ケ原に集結し、それぞれ持ち場に布陣しました。
そして、1600年9月15日、関ケ原にて東西両軍が激突。当初は、西軍が奮闘したものの、小早川秀秋・吉川広家などの裏切りにより、東軍が圧勝。わずか1日で天下分け目の戦いは終了しました。
戦後処理として、石田三成・小西行長・安岡寺恵瓊らは処刑され、宇喜多秀家・長宗我部盛親らも改易となります。こうして、家康は豊臣政権内の反発分子を排除し、新たな国づくりに着手していったのです。
三成らにより主戦場として用意周到に準備された関ケ原なぜ、関ケ原が両軍の決戦場になったのかについては、多くの説があります。大垣城・佐和山城の陥落を恐れた三成ら西軍が関ケ原に進出し、偶発的にここが決戦場になったのとの説も語られてきました。
しかし、それは真実でしょうか。