「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【前編】 (3/5ページ)
でも、関ケ原の戦いで三成ら文治派を一掃した後に、豊臣秀頼を盛り立てようと考えていたとしたら、先を読む能力に欠けていたと言われても仕方がないでしょう。事実、彼らは秀頼を守ろうと頑張りますが、全て後手後手にまわり、最後は秀頼を見殺しにしてしまうのです。
そう考えると、最後まで西軍として戦い、滅びていった石田三成・大谷吉継らの大名たちは、まさしく豊臣家のために正義を貫いたといえるでしょう。
家康の天下取りと江戸幕府開府のきっかけとなった合戦
先ずは、簡単に関ケ原の戦いの推移をお話ししましょう。上杉景勝討伐のため、会津に出陣した家康は、小山の陣で石田三成ら西軍の挙兵を知ります。これが関ケ原の戦いのおおよそ1ヵ月前のことでした。
急遽、江戸に引き返した家康は、決戦に備えて兵力を温存するとともに、福島正則・黒田長政ら豊臣恩顧の大名約4万を清須城に前進させます。
福島正則は、風邪と称して江戸から動かない家康に疑念を持ちつつも、長政の「内府は自分たちの忠誠心を試しているのでは」という言葉にのり、軍を動かし西軍の一拠点岐阜城を攻略します。