三方ヶ原合戦で壮烈な最期!酔いどれサムライ本多忠真(浪岡一喜)はいかに散っていったか【どうする家康】 (4/6ページ)
史料的な信ぴょう性は『三河物語』よりも低くなってしまいますが、『改正三河後風土記』に期待をかけます。
……本多肥後守忠真後殿して引取けるが武田勢大勢にして烈しく追かくれバ忠真度々返し合せて終に討死す……
※『改正三河後風土記』「三方原大戦の事」
敗軍の後殿(しんがり。殿軍)を引き受けて武田の大軍を食い止めて奮戦した忠真。しかし武勇もむなしく討死してしまったということです。
いい感じですが、もうちょっと具体的な戦いぶりが知りたいですね。ということで、次は『寛政重脩諸家譜』を見てみましょう。
……元亀三年十二月二十二日三方原の役に、吾軍利あらずしてすでに御馬をかへしたまふに及びて忠真後殿となり、反り撃ことしばしばにして従者等おほくうち死し、忠真もみづから鎗を執て敵兵六七人を殺すといへどもいよいよ逼り来るにより、鎗を捨刀をもつてまた三人を斬てすて、終に敵中に入て戦死す。法名慶花。三河国大樹寺に葬る。
※『寛政重脩諸家譜』巻第六百八十一 藤原氏(兼通流)本多
鎗を奮って敵兵を6、7人(67人と盛りたいところですが、ここは現実的な数字に。これでも十分に強いです)を倒した忠真。
やがて武田の大軍に押し囲まれると槍を捨てて抜刀、さらに3人を斬った後に力尽きたということです。
周りがすべて敵ならば、当たるを幸い大暴れ。精強で名高い三河武士の面目を、大いに施したのでした。