意外?実は鉄砲(火縄銃)の導入に積極的だった武田信玄。しかし……【どうする家康】 (2/5ページ)

Japaaan

鉄砲兵は弓兵の間に配置し、矢が5発射られたタイミングで撃ち始めるように……

これは信玄が北信濃の強豪・村上義清(むらかみ よしきよ)と対決した上田原の合戦(天文17・1548年2月14日)でのことです。

あれ?鉄砲の伝来って天文12年(1543年)と教わりましたが、永承7年(1510年)時点で既に火縄銃が武田家に導入されていたというのは、どういう訳でしょうか。

実は南蛮からではなく、中国大陸や朝鮮半島を経由して青銅製の火縄銃がもたらされていたのです。だから鉄砲ではなく銅砲と言うべきかも知れません。

実は南蛮よりも先に伝来していた火縄銃(画像:Wikipedia)

以降にも、弘治元年(1555年。天文24年)の第二次川中島合戦で鉄砲足軽300人を導入していました。

しかし、文中の「玉薬一人にみはなしつつ(弾薬は一人あたり三放しづつ)」「某はなせと申時仕れ(個別に命じた時以外は自己判断で撃つな)」という表現に、弾薬の慢性的な欠乏が痛感されます。

というのも、実は鉄砲自体の量産には成功していたものの、火薬を作るために必要な硝石の入手が外国からの輸入に依存していたのです。

さらに大陸の明王朝は軍需物資の禁輸政策をとっており、硝石は倭寇による密貿易以外の入手が不可能でした。

こうなると海路を押さえていない信玄は、陸路で高い関税のかけられた、ごく少量の粗悪な弾薬を買わされるよりありません。

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