意外?実は鉄砲(火縄銃)の導入に積極的だった武田信玄。しかし……【どうする家康】 (4/5ページ)

Japaaan

「ナメるな小童!」家康を分からせる信玄。歌川芳虎「元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖」

対する徳川勢は鉄砲も十分にあり、これなら3倍以上の武田に勝てると思ったのでしょうか。実際には兵力差をもって武田が圧勝したものの、それ以上進む余力はなかったようです。

野田城あたりをウロウロしている内に病が悪化し、程なく世を去ってしまったのでした。

……元亀も三年に天正とあらたまる。信玄はいよゝゝ軍伍をとゝのへ。正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て。終に菅沼新八郎定盈城兵にかわりて城を開渡すに及て。たばかりてこれを生取しが。山家三方の人質にかへて定盈ふたゝび帰ることを得たり。この城攻の時入道鉄砲の疵を蒙り。四月十二日信濃国波合にてはかくなりぬ……

※『東照宮御実紀』巻二「信玄卒」

一説には信玄の死因は野田城で狙撃(鉄砲疵)を受けたためとも言われており、実に皮肉と言うよりありません。

「意外?実は鉄砲(火縄銃)の導入に積極的だった武田信玄。しかし……【どうする家康】」のページです。デイリーニュースオンラインは、三方ヶ原の戦い甲陽軍鑑戦国大名村上義清武田勝頼カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る