【どうする家康】戦国版”走れメロス”鳥居強右衛門とは何者か?忠義を貫いた最期がコチラ (4/5ページ)
「織田殿の援軍が、すでに岡崎まで参られた!先手はもうすぐそこまで、我らが両殿(家康、信康)は野田までおいでじゃ!城を堅固に保たれよ、さすれば三日の内にご武運開けようぞ!」
……此由を奥平作志うと。同九八郎殿と。親子の人へ。よく申せと云たれバ。帰つて敵の■よ見を云や■奈れバ。はやくとゞめをさせとて。とゞめをぞさしける。……
※大久保彦左衛門『三河物語』第三下
これを聞いた長篠城兵は大いに奮い立ち、奥平貞能(さだよし)・信昌父子は強右衛門の忠義に感動したのでした。
終わりに![](https://image.dailynewsonline.jp/media/a/8/a873fcb5ec79ac0941fa8ff6e034a6b14c0a3624_w=666_hs=39151cfbdd8ae86e7d8c2c98eec2c2ed.png)
「援軍は必ず来るぞ!」長篠城内へ訴える強右衛門。楊洲周延「鳥居強右衛門敵捕味方城中忠言」
一方、当ての外れた勝頼はただちに強右衛門を殺させますが、これがかえって長篠城兵の士気を高めてしまう結果に。
「各々方、強右衛門の死を無駄にすまいぞ!」
「「「応!」」」
かくして徳川・織田連合軍が到着し、5月21日の長篠合戦が幕を開けるのでした。