渦中の城を守った武将!!「長篠の戦い」の発端となった長篠城を守備した奥平信昌の生涯を紹介【どうする家康】 (4/4ページ)
その後の信昌は天正13年(1585年)に石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔したことで、流出した徳川家の軍制から武田信玄の軍制へと変更する軍制改革の際に、武田家に臣従した過去を活かし、この軍制改革に貢献する活躍をみせました。
さらには、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に京都の治安維持を務める京都所司代に任命されます。そして、京都に潜伏していた安国寺恵瓊を捕縛する活躍も残しました。
上記の活躍を残し、家康に多大な貢献と忠義を見せた信昌は、慶長20年(1620)に病死しました。
最後に今川、武田、徳川と主君を変えながら渡り歩いた奥平氏。信昌の祖父は三河国作手の有力国人であり、それほど三河国やその周辺が不安定だったことがうかがえます。また、亀姫と婚姻したということは、奥平氏が対武田にとって重要な人物たちだったこともわかります。
ただ、その途中でおふうを死なせてしまったことは、信昌にとって後悔の念が残ったかもしれません。
トップ画像 右: 大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
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