日本近代化の先駆け「岩倉使節団」外遊最大の収穫は「勇気と自信」! (2/4ページ)

日刊大衆

 しかし、その後の交渉でも日本側の提案は拒否され、結局、条約改正は合意に達することなく決裂した。

 こうしてアメリカとの交渉がうまくいかなかった結果、他国との交渉も不発に終わることになる。

 条約改正交渉に失敗した使節団は七月三日、ボストンから大西洋を渡ってイギリスへ向かった。そこでの滞在はアメリカに次ぐ一二二日間。

 ロンドンでは国会議事堂から電信寮、造幣寮、小学校の他、大英博物館などを見て回り、リバプールでは造船所、マンチェスターでは紡績工場や製鉄所などを視察した。

 イギリスでの滞在が長くなったのは、産業革命を起こした国の実情をつぶさに見聞したかったからだ。

 次に一行が訪れたのがフランス。一一月一六日朝にロンドンを発ち、ドーバー海峡を渡り、その日の夕方、パリに着いた。

 滞在期間はイギリスに次ぐ七〇日間で、使節団は士官学校や地下水道、砲台、兵営、建築学校、国立銀行など、新政府の「富国強兵」政策につながる施設を中心に視察。

 また、意外なところではチョコレート工場の見学がある。なお、岩倉使節団が日本に初めてチョコレートをもたらしたとされる。

 しかし、その文明国フランスの首都で使節団は意外なものを目にする。

 彼らのパリでの宿舎は有名な凱旋門近くのホテルだった。その凱旋門に生々しい砲弾の痕が残り、修復工事が行われていたのだ。

 日本でも寛永寺(上野戦争)や御所(禁門の変)などに内乱の傷跡が多く残っているが、一行にとって文明国の首都でも内乱という負の遺産を抱えていることが意外、かつ驚きだったようだ。

 実はこの一年前、フランスで「パリコミューン」という内乱が起きていたのである。フランスがプロイセン(後述)との戦争に敗れ、労働者を主体とする国民軍が政府に対抗し、パリの各区から選出された代議員がコミューン(自治政府)を組織して七二日間、首都を支配。

「パリコミューン」と呼ばれ、彼らは“民衆ファースト”の政策を打ち出したものの、政府軍に敗れて崩壊した。

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