日本近代化の先駆け「岩倉使節団」外遊最大の収穫は「勇気と自信」! (3/4ページ)

日刊大衆

 視察団一行の見聞録『米欧回覧実記』では、その主体を「賊徒」などと称し、フランスが革命戦争を繰り返したことを知るに及んで、

「内訌(内乱)が沸ふ つ起き (沸き起こること)すること、仏国(フランス)の情態(状態)なり」と驚いている。

 ちなみに一行がフランス滞在中、日本で留守を預かる大隈重信らによって改暦が行われ、明治五年一二月三日が明治六年の元日となり、使節団はその日、新年祝賀のため、ベルサイユ宮殿を訪れている(以降の日付は新暦)。

■ドイツ宰相の「演説」に使節団の一行は感激!

 一行はその後、フランスからベルギーへと移動し、三月九日、ドイツの首都ベルリンに入った。ドイツでの滞在期間は三三日と決して長くなく、使節団も同国にはさほど期待していなかったのかもしれないが、日数とは逆にその成果は大きかった。

 当時、ドイツはプロイセンを中心に統一されたばかりの新興国。君主国という面でも日本との共通性があった。時のドイツの宰相はビスマルク(元プロイセン首相)。

 一五日に一行は、そのビスマルクの宴に招かれ、演説を聞いた。そこでビスマルクは「ヨーロッパの小国だったプロイセンが大国(イギリスやフランスなど)と対等外交ができるように愛国心を奮って励むこと数十年でほぼその望みをかなえることができた」と語り、使節団一行はかなり感激したようだ。

 木戸孝允と大久保利通がその言葉に勇気づけられたとする感想を日記や手紙につづり、『米欧回覧実記』も「この語は甚だ意味あるものにて」と書いている。

 その後、使節団は北欧諸国やイタリア、オーストリア、スイス、スペインなどのヨーロッパ諸国を巡って地中海からスエズ運河を通り、シンガポール、香港、上海などを経て明治六年九月一三日、横浜へ帰った。

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