【日本一の兵】戦国乱世の終焉を駆け抜けた真田信繁(日向亘)の生涯をたどる【どうする家康】 (2/5ページ)
このとき石田三成にくみして父昌幸とともに上田城にこもり、三成が援兵をなす。これによりて死刑に処せらるべきのところ、兄信之助命のことをこひまうすにより、その罪を宥められて父とともに高野山に蟄居せしめらる。のち豊臣秀頼のまねきにしたがひ、大坂城にこもり、しばしば力戦し、元和元年五月七日のたたかひに討死す。
※『寛政重脩諸家譜』巻第六百五十五 滋野氏 真田
【意訳】真田幸村。はじめの名前は信繁、通称は源次郎。官位は左衛門佐(さゑもんのすけ)/従者五位下。母は兄・真田信幸(信之)と同じ正室・菊亭晴季の娘。
慶長5年(1600年)家康が上杉景勝を討伐する際につき従うも、父の真田昌幸と共に離反して信州上田城に立て籠もり、石田三成に与する。
石田三成の敗死後、真田父子も処刑されるべきところ、家康に従っていた兄・信幸の助命嘆願によって高野山に幽閉された。
のち慶長19年(1614年)に家康が豊臣討伐に乗り出すと、秀頼を助けるため高野山を脱出して大坂城へ駆け込む。
持ち前の武勇と知略をいかんなく発揮して徳川の大軍を翻弄するも、最期は慶長20年(元和元年)5月7日の決戦で討死してしまう。
……ごくざっくり、こんな生涯になります。これを読むと「へぇ。最初は信繁で、後に幸村と名乗ったのか」と思いますが、実は生前の彼が自分で幸村と名乗ったことはありませんでした。
※信繁が発給した文書は20点確認されていますが、いずれも(偽名や変名を含め)幸村とは書いていません。余談ながら花押(肉筆サイン。判子の代わりに書かれた)は9回変えており、謀略を得意とする真田家らしい警戒心が偲ばれます。
確認できる限り、幸村の初出は江戸時代初期に書かれた軍記物語『難波戦記』。幸の字は真田家の通字(一族の証である文字。父・昌幸や兄・信幸、祖父の幸隆らが使っている)、村は徳川家に代々仇なしたと伝説が残る妖刀・村正からとっているそうです。
しかし幸村という名前があまりに広がってしまったため、先に挙げた『寛政重脩諸家譜』や何なら真田家の子孫(信州松代藩)自体が系図に「幸村」と書くほどでした。