【日本一の兵】戦国乱世の終焉を駆け抜けた真田信繁(日向亘)の生涯をたどる【どうする家康】 (4/5ページ)
まったく忙しいったらありゃしません。
大坂で信繁は大谷吉継の娘(竹林院)を正室に迎え、四女二男(阿梅、あぐり、真田大助幸昌、真田大八守信、阿菖蒲、おかね)を授かりました。
天正18年(1590年)に秀吉が北条討伐の兵を挙げた際には父や兄と別行動で石田三成の下に従い、忍城攻めに参戦したと伝わっています。
天正20年(1592年。文禄元年)から文禄2年(1593年)にかけて行われた秀吉の第一次朝鮮出兵(文禄の役)では、信繁は父・兄と共に兵700を率いて肥前名護屋城に詰めたそうです。
早く出陣したいと血気に逸ったのか、それとも先の見えない戦いに、様子をうかがっていたのでしょうか。
文禄3年(1594年)11月2日、信繁は従五位下・左衛門佐に叙せられ、秀吉から豊臣の姓を与えられました。よほど気に入られ、将来を見込まれていたことが分かりますね。
信繁は秀吉の馬廻衆としてそば近く仕え、父たちとは別に19,000石の知行を与えられていたそうです。
やがて秀吉が世を去ると家康が天下取りの野心をむき出しにし始めました。かねがね徳川と争っていた真田昌幸・信繁は豊臣を守るため石田三成に与し、兄の真田信之は徳川家臣・本多忠勝の娘(小松殿、稲姫)を娶っていたため家康への臣従を貫きます。
家康か三成のどちらにつくか……父子三人が犬伏で話し合ったことから、今日「犬伏の別れ」として伝わっています。
どちらが勝っても真田家が存続できるように計らったとも言われるものの、単にそれぞれの利害が衝突した結果でしょう。
こうして反・徳川姿勢を明確にした真田昌幸・信繁は信州上田城に立て籠もり、関ヶ原の決戦へ向かう徳川秀忠の大軍を翻弄し、みごと足止め(第二次上田合戦)。その結果、秀忠は決戦に間に合わないという大失態を犯してしまうのでした。
しかし石田三成率いる西軍は敗北し、西軍に与した真田昌幸・信繁は処刑と決まったのです。すると信之とその舅である本多忠勝が助命をとりなし、高野山への流罪に止められたのです。
ひとまず命は助かったものの、極貧の困窮生活を強いられた二人。