【日本一の兵】戦国乱世の終焉を駆け抜けた真田信繁(日向亘)の生涯をたどる【どうする家康】 (5/5ページ)

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後に高野山から九度山へ移り、やれ生活物資が足りないだの何だの、信之へ支援をせびり倒す日々が続きました。

そうこうしている内に慶長16年(1611年)に父・昌幸が病没。信繁は翌年に出家し、好白斎と改名します。

このまま父の菩提を弔って終わるかと思ったらさにあらず、やがて慶長19年(1614年)に九度山を脱出、大坂城へ駆け込んだのです。

攻め寄せる家康の軍勢を前に、いざ籠城戦。ここで信繁は大坂城の最弱点と思われる個所に出丸を築いてそこを守備。敵味方から「真田丸」と呼ばれました。大河ドラマのタイトルにもなっていますね。

ここで信繁は徳川の大軍を相手に善戦を演じましたが、豊臣家当局(秀頼、淀殿ら)が家康と講和してしまい、その条件として大坂城の堀を埋め立てられてしまいました。真田丸も破却されてしまったのです。

そして慶長20年(1615年)、丸裸にされた大坂城を出て最後の決戦を挑み、あえなく討死してしまったのでした。

信繁の首級を獲ったのは松平忠直(家康の次男・結城秀康の長男)家臣・西尾宗次。くたびれ切っていた信繁を本人と知らず、一騎討の末に討ち取ったと言います。

『滋野世記』によると、信繁の首級を見た徳川方の諸将は少しでも武勲にあやかるため、競い合って遺髪をむしり取って御守にしたとか。

敵味方を問わず、その死を惜しまれた真田信繁。判官びいきから逃亡説も多く存在し、今でも日本各地に信繁の墓が祀られています。

終わりに

大坂夏の陣で最期の突撃を敢行、あと一歩のところまで家康を追い詰めた……という伝承も残る幸村(信繁)。歌川貞信「日本略史図 真田幸村・徳川家康」

以上、真田幸村こと真田信繁の生涯を駆け足でたどって来ました。この他にもエピソードに事欠かない信繁ですが、果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではどのような信繁が描かれるのでしょうか。

日向亘の熱演に、今から視聴者の期待が集まっているようです。

※参考文献:

小林計一郎 編『決定版 真田幸村と佐奈田一族のすべて』中経出版、2015年7月 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』角川書店、2015年10月 丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社新書、2015年11月

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