【日本一の兵】戦国乱世の終焉を駆け抜けた真田信繁(日向亘)の生涯をたどる【どうする家康】 (3/5ページ)
これに対して江戸幕府当局が問い合わせたところ、真田家は「信繁が本名で、大坂城に入った際に幸村と名乗った」との旨を答えています。伝説が既成事実となってしまったのですね。
戦国乱世の終焉を駆け抜けた真田信繁の生涯
さて、そろそろ本題に入りましょう。
真田信繁は永禄10年(1567年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の次男として誕生します(誕生年については元亀元・1570年説もあるようです)。
天正3年(1575年)の長篠合戦で伯父の真田信綱・真田昌輝が討死したため、父が真田家を継承。上野国岩櫃城(群馬県東吾妻町)城代として、越後の上杉を警戒しました。
上野国は武田・上杉・北条が三つ巴に入り組む抗争地域で、常に気の抜けない危険地域。かつて「信玄の小脇指(懐刀)」と謳われた昌幸でなければ守り抜けなかったでしょう。
天正10年(1582年)3月に主君の武田勝頼が滅亡すると、真田家は織田信長に臣従して所領を安堵されました。信繁は人質として、新たに関東管領となった織田家臣・滝川一益に引き渡されます。
しかし同年6月に起きた本能寺の変で信長が横死を遂げると旧武田領は制御不能の混乱に陥りました。この「天正壬午の乱」に乗じて信繁は真田家に返還されたのです。
真田家は新たに上杉景勝へ臣従し、信繁は人質として越後国へ送られました。この間、父は所領争いで徳川家康の軍勢と一戦を交え、これを見事に撃退しています(天正13・1585年、第一次上田合戦)。
後に織田政権を乗っ取った羽柴秀吉が台頭すると、今度はそちらへの人質として大坂に送られました。