「どうする家康」浪速のことは夢のまた夢…第39回放送「太閤、くたばる」振り返り (6/7ページ)

Japaaan

かつて亡き主君・織田信長の遺児たちに自分がしてきたことを、悔いていたかも知れません。

今はひたすら懇願するよりありません。そんな哀れさがにじみ出ていました。

ちなみに江戸幕府の公式記録『徳川実紀』には、このように描かれています。

……豊臣太閤既に大漸に及び。 君と加賀亜相利家をその病床に招き。我病日にそひてあつしくのみまされば。とても世に在むとも思はれず。年比 内府と共に心力を合せてあらまし天下を打平らげぬ。秀頼が十五六才にならんまで命ながらへて。この素意遂なんと思ひつるに。叶はざる事のかひなさよ。わがなからむ後は天下大小の事はみな 内府に譲れば。われにかはりて万事よきに計らはるべしと。返すゞゝゝ申されけれど。 君あながちに御辞退あれば。太閤さらば秀頼が成立までは。 君うしろみ有て機務を摂行せらるべしといはれ。又利家にむかひ。天下の事は 内府に頼み置つれば心やすし。秀頼輔導の事に至りては。偏に亜相が教諭を仰ぐところなりとあれば。利家も涙ながして拝謝し。太閤の前を退きし後に。 君利家に向はせられ。殿下は秀頼が事のみ御心にかゝると見えたり。我と御辺と遺命のむねいさゝ相違あるまじといふ誓状を進らせなば。殿下安意せらるべしと宣へば。利家も盛慮にまかせ。やがてその趣書て示されしかば。太閤も世に嬉しげに思はれし様なりとぞ。(天元実記。)……

※『東照宮御実紀附録』巻八「秀吉遺命于家康利家」

秀吉は家康に秀頼の後見を頼み、利家に教育係を頼んでいます。

「やれやれ、もはや殿下は秀頼、秀頼ばかり。天下などどうでもよくなってしまったのか、困ったものじゃ。まぁせっかくだから、起請文でも書いてやれば少しは安心されるんじゃなかろうか」

かくして起請文を差し出した家康ですが、この時点で反故にする気満々だったのかは諸説あります。

「「どうする家康」浪速のことは夢のまた夢…第39回放送「太閤、くたばる」振り返り」のページです。デイリーニュースオンラインは、江姫天秀尼朝鮮出兵増田長盛浅野長政カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る