大義を思う者は最期まで…石田三成が処刑直前に干し柿を拒んだ理由とは?【どうする家康】 (1/3ページ)

Japaaan

大義を思う者は最期まで…石田三成が処刑直前に干し柿を拒んだ理由とは?【どうする家康】

時は慶長5年(1600年)10月1日、京都六条河原で石田三成が処刑されました。

最期の日、三成は干g「あーはいはい、干柿のエピソードね!知ってる知ってる!」という声が聞こえて来そうなくらい有名ですよね。

しかしご存知ない方もいるかも知れないので、今回は『名将言行録』より、三成と干柿のエピソードを紹介。

原文も一緒に載せているので、よかったらじっくり味わって読んで欲しいと思います。

大義を思ふ者は、仮令首を刎らるゝ期までも……

三成、斬らるゝの日、途中にて湯を乞ひしに、折節其辺になかりしかば、警固せし者、湯は只今求め難し、喉乾かば、爰(ここ)に甘干の柿あり、是を食はれよと言ふ。三成聞て、夫(それ)は痰の毒なり、食す間敷(まじき)と言ふ。聞く人大(おおい)に笑て、只今首を刎(はね)らるゝ人の毒断(どくだち)するこそ笑(おか)しけれと言ひしを、三成聞て、汝等(なんじら)如き者の心には尤(もっと)もなり、大義を思ふ者は、仮令(たとい)首を刎らるゝ期までも、命を大切にして、何卒(なにとぞ)本意を達せんと思ふものなりと言はれけり。頓(やが)て六条の河原に行きしに、顔色平生の如くにして、死に就きしとぞ。

※『名将言行録』巻之三十六 石田三成

「……のぅ、喉が渇いた。湯などくれぬか」

三成が警固の者に頼んだどころ、「ちょっと用意できないな。喉が渇いたなら、これでも食いなされ」と干柿を渡しました。

干柿。三成は「痰の毒」と言ったが、実際は喉によいらしい(イメージ)

すると三成は「忝(かたじけな)いが、それは痰の毒だ。

「大義を思う者は最期まで…石田三成が処刑直前に干し柿を拒んだ理由とは?【どうする家康】」のページです。デイリーニュースオンラインは、名将言行録どうする家康関ヶ原の戦い石田三成戦国武将カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る