関ヶ原の戦いで活躍した織田有楽斎&長孝父子。しかし家康からの評価は散々……【どうする家康】 (1/4ページ)
織田信長の弟として生まれ、苛烈な兄とは異なり茶人として生きた織田有楽斎こと織田長益。
あまり武勇にすぐれたイメージはないものの、やはり彼も戦国乱世をしたたかに生き抜いた一人の武士。戦場では武勲を立てたこともあります。
時は慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原合戦においても、有楽斎は息子の織田長孝と共に敵の首級を獲りました。
戦いは昼過ぎの未の刻(午後2:00ごろ)に終わり、二人は獲った首級を東軍の総大将・徳川家康に献上するのですが……。
敵将・蒲生頼郷を討ち取った有楽斎……織田源五郎入道有楽は石田が家臣蒲生備中が首を提げ来りしかば。有楽高名めされしなと仰あり。入道かしこまり年寄に似合ざることと申上れば。備中は年若き頃より用立し者なるが不便の事なり。入道さるべく葬られよと仰らる。……
※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」
「……入道殿、此度の戦は大儀であった」
「ありがとうございます」
家康からねぎらいの言葉を賜った有楽斎。さっそく首級を差し出しました。
首級の主は蒲生頼郷(備中守)。西軍の石田三成に仕えた猛将で、主君を逃がすために最期まで戦い抜いた忠勇の士です。
「おぉ、備中か。