映画やドラマの名シーンは誇張!?「武士は馬に乗って戦った」はウソ (2/4ページ)
勝頼はわざわざ馬から下り、自分の足で徳川軍へ突きかかって切り崩しているのだ。
武田軍の活躍を描いた『甲陽軍鑑』は、軍記物ながら史料的価値が見直されており、そこにも長篠の合戦で武田軍の騎馬武者の多くが馬を従者に預け、槍を取って戦っていたと書いている。つまり長篠の合戦でも、敵兵と遭遇したら馬から下りて戦っていたのだ。
いったい、なぜなのか。
槍を持って敵と戦う必要上、馬上だと片手綱にならざるを得ない事情があるからだ。もう少し詳しく説明してみよう。
馬に跨ると両方の手で手綱を掴む必要があり、槍を小脇に挟んで移動しなければならない。
そこまではいいとしても敵兵と遭遇したら、どうするのか。まず片方の手で手綱を掴んで馬を操り、もう片方の手で槍を振り回して戦わなければならないのだ。『甲陽軍鑑』に「片手綱というはよくよく馬を乗り覚え、巧者になってのこと」とある。馬上、槍を振るって敵と一騎打ちできるのは有名な侍大将クラスか、よほどの技量がないと難しかったという。
それでは、どうして戦場で馬を使ったのか。その目的の一つが輸送手段。戦場まで連れていってくれる乗り物として使っていたのだ。
そのことを熟知し、天下取りに活用したのが当時、まだ羽柴姓を名乗っていた豊臣秀吉。天正一〇年(一五八二)六月二日、織田信長が京の本能寺で明智光秀に討たれたのち、備中(岡山県)で毛利輝元の軍勢と対峙中だった秀吉は、世にいう「中国大返し」で京へとって返した。
こうして本能寺の変の一一日後(一三日)には、山崎(京都府大山崎町)で明智軍を打ち破るのだ。