大坂の陣で尽力!!戦国武将・大野治長の3人の弟たちの活躍と最後を紹介【どうする家康】 (2/5ページ)
しかし、戦況の悪化により治長は船場を捨てるよう命じましたが、治房は拒否。
困った治長は治房を軍議と称して、呼び出した末に拘束し、船場の各砦に火をかけました。
この火によって守備兵たちは撤退すると踏んでいましたが、突然の火に混乱してしまい、挙げ句の果てに徳川軍に砦を占拠されてしまいました。
以後、治長との関係は決裂し、主戦派の筆頭として和睦派の治長と対立します。そして、和睦は成立すると、治房は刺客を用いて治長を襲撃する事態にまで発展しました。
翌年の大坂夏の陣では、2000人の兵を率いて筒井定慶が守る大和国郡山城を攻略(郡山城の戦い)。その後は、大和方面より攻めてくる浅野長晟に対して、紀伊での一揆を皮切りに戦いを仕掛けることを画策します。
しかし、和泉国樫井まで撤退した浅野軍と大野軍の塙団右衛門が戦いを始めてしまい、大野軍は壊滅状態となり大坂城へ撤退しました(樫井の戦い)。
撤退後は、天王寺・岡山の戦いに岡山口の大将として出陣。徳川秀忠の陣まで殺到し、秀忠軍を混乱に陥れる活躍を見せます。
しかし、立て直されてしまったことですぐさま大坂城へ撤退しました。そして、城内に火の手が上がると、玉造口から逃亡し、行方をくらませました。