大坂の陣で尽力!!戦国武将・大野治長の3人の弟たちの活躍と最後を紹介【どうする家康】 (3/5ページ)

Japaaan

その後の治房について、京都で捕縛された末に斬首された説や逃亡せず大坂城で焼死した説、秀頼の庶子・国松と共に逃亡したが、土民に殺害された説など諸説あります

堺を焼き討ちした橙武者・治胤

治胤と同じく橙武者の薄田兼相/Wikipediaより

治長の次弟に当たる大野治胤は、秀頼の小姓として若き頃より豊臣家に仕えていました。

しかし、慶長14年(1609)に起きた猪熊事件の首謀者・猪熊教利の逃亡を織田頼長と共に助けた罪で追放されてしまいます。

その後は道犬斎と名を変え潜伏し、大坂の陣開始を機に兄弟たちを頼って再び豊臣家に仕えました。

大坂冬の陣では3300人の兵を率いて野田・福島を守備していましたが、大雨の中での襲撃に撤退。その結果、徳川軍の野田・福島占拠と豊臣軍の水軍壊滅という大敗北を招きました(野田・福島の戦い)。

治胤はこの戦いを機に「橙武者(鏡餅の飾りで置かれることから、見せかけだけの武者の意味)」と嘲られました。

ちなみに、大坂冬の陣での博労淵の戦いで敗北した薄田兼相(すすきだ-かねすけ)も橙武者と呼ばれています。

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