兄・源雅信に比べて影が薄い印象?音曲に通じた源重信(鈴木隆仁)の生涯をたどる【光る君へ】

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兄・源雅信に比べて影が薄い印象?音曲に通じた源重信(鈴木隆仁)の生涯をたどる【光る君へ】

雅信の弟 源 重信(みなもとのしげのぶ)
鈴木 隆仁(すずき・りゅうじん)

源雅信の弟。音曲に通じ、朗詠・笙(しょう)・笛をよくした。

※NHK大河ドラマ「光の君へ」公式サイト(人物紹介)より

円融天皇に仕える朝臣として、兄の源雅信(まさのぶ)と共に登場する源重信(みなもとの しげのぶ)。

人物紹介では音曲に通じていることのみ言及されていますが、実際はどのような生涯をたどったのでしょうか。

今回は源重信について、その生涯をたどってみたいと思います。大河ドラマ「光の君へ」を楽しむご参考にどうぞ!

74歳の生涯をたどる

兄の源雅信。菊池容斎『前賢故実』より

源重信は延喜22年(922年)、敦実親王(あつざねしんのう。宇多天皇の皇子)と藤原時平女(ときひらのむすめ)の間に誕生しました。

父の代までは皇族でしたが、孫である重信の代からは一般人に格下げ(臣籍降下)となり、源の姓を賜ります。

ちなみに源とは「源(祖先)は皇族である」ことを意味する姓で、宇多天皇の子孫であることから宇多源氏と呼ばれました。

兄弟には源寛信(ひろのぶ)・寛朝(かんちょう。僧侶)・源雅信、そして弟の雅慶(がぎょう。僧侶)がいます。

やがて成長すると藤原朝忠(あさただ)や源高明(たかあきら)、藤原師輔(もろすけ)や藤原頼忠(よりただ)の娘たちを妻に迎え、多くの子宝に恵まれました。

さて、父が皇族であることから順調に出世していった重信。しかし安和2年(969年)に舅の源高明が源満仲(みつなか)に陥れられると、連座で昇殿を止められてしまいます。

後世「安和の変」と呼ばれる事件の影響は4年に及びましたが、天禄4年(973年)に昇殿を再開できました。

その後は皇太后大夫(先代天皇陛下の皇后を補佐)として昌子内親王を補佐し、また皇太子傳(皇太子殿下の教育係)として居貞親王(後の三条天皇)を支えます。

そして従一位・左大臣にまで上り詰め、正暦6年(995年)5月8日に世を去りました。享年74。死後まもない5月26日に正一位を贈られ、まさに「位大臣を極めた」のです。

真面目で人懐っこい愛されキャラ?

重信が得意とした笙(しょう)。ぜひ劇中でも聞かせて欲しい(イメージ)

さて、源重信の生涯を駆け足でたどってきましたが、その人柄はどんなだったのでしょうか。

冒頭に紹介された音曲の才能は父譲りと言われ、人懐っこい性格から村上天皇をはじめ人々に愛されたと言います。

恋愛分野は苦手だったようですが、そんな不器用さも魅力だったのかも知れませんね。

また重信は仕事熱心だったと言います。修理大夫(しゅりのたいふ。すりのかみ)を務めていたころ、しばしば内裏の周りを巡回し、壊れている箇所を見つけるとすぐに修理したとか。

「仕事なんだから当たり前だろ」と思われるかも知れませんが、そんな当たり前のエピソードが伝わっているということは、官職が形骸化しつつあった≒重信の真面目さが引き立ったのかも知れませんね。

そんな重信は、京都の郊外である宇治に別荘を持っていました。重信の没後、その別荘は藤原道長(姪・源倫子の婿)に買い取られます。

道長が宇治殿と呼ばれるキッカケとなった風光明媚な別荘は、道長の死後に藤原頼通(よりみち。道長嫡男)へ受け継がれました。

そして父の菩提を弔うため、頼通は宇治の別荘を三井寺(園城寺)へ寄進。これが鳳凰堂で有名な平等院となったのです。劇中でも言及されるか、楽しみにしています。

終わりに

どんな音色がするのだろう(イメージ)

以上、源重信について紹介してきました。

第2回放送「めぐりあい」まで観た限り、兄・源雅信に比べて影が薄い印象が否めません。

これから彼の個性が発揮される場面が出て来るのか、何より得意の音曲が披露されるのか……今後の展開に注目ですね!

※参考文献:上田正昭ら編『コンサイス日本人名辞典 第5版』三省堂、2009年1月

トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより

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