居城を失い浪人に落ちぶれた戦国武将・尼子経久…なんと『とある舞』で城に忍び込み奪還に成功していた (3/3ページ)

Japaaan

奇襲成功により城を奪還

伝・塩冶掃部介墓/Wikipediaより

文明18年(1486)の元旦、賀麻党70人は計画通り太鼓や笛を鳴らしながら月山富田城へ進入。城内の兵たちは舞に見入っていました。

その隙に忍び込んでいた経久は各地に火を放ちました。これを合図に賀麻党は、身にまとっていた烏帽子や素襖を脱ぎ捨て、隠していた具足と武器で奇襲を仕掛けます

突然のことに対処できず、城内は混乱状態。混乱を抑えきれず、月山富田城の城主だった塩冶掃部介(えんや-かもんのすけ)は妻子を殺害した後に自害しました。

こうして、経久は再び月山富田城の城主に返り咲きました。

守護代から守護への地位を固める

その後、経久はお家騒動に敗れた出雲守護・京極政経を匿ったことで関係を修復させ、明応9年(1500)に守護代としての地位を完全に復活させました

政経の死後には、宍戸氏と婚姻関係を結び、勢力を有していた塩冶氏をけん制し、権力基盤を確立させていきます。

そして、政経の後継者である吉童子丸が永正11年(1514)に病死すると、経久は権力者がいない出雲国を乗っ取りました。

ただ、この時点では守護代の地位でありましたので、大永年間(1521年~1528年)に出雲守護に任命されたことで、名実ともに出雲国を手中に収めました

また、月山富田城奪還に協力した鉢屋弥之三郎は、月山富田城本丸北にある鉢屋平に長屋を与えられ、以後やぐら下郎と呼ばれるように。

その後は忍者となり、賀麻党を率いて奇襲やだまし討ちで功績を挙げ、最後まで尼子氏のために尽くしました。

参考:二木謙一『誰かに話したくなる日本史こぼれ話200』‎2006年、日本文芸社

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「居城を失い浪人に落ちぶれた戦国武将・尼子経久…なんと『とある舞』で城に忍び込み奪還に成功していた」のページです。デイリーニュースオンラインは、月山富田城千秋万歳尼子経久戦国武将戦国時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る