実は日本を攻撃する気はなかったペリー提督!「交渉」から「恫喝」に切り替えてまで開国を急いだ理由 (4/5ページ)

ペリーがここで「交渉」から「恫喝」へとやり方を切り替えてまで日本の開国を急いだのは、太平洋におけるアメリカの影響力を強めるためだと考えられます。
中国市場へ向かう商船や太平洋で活動する捕鯨船にとって、日本は絶好の中継地点でした。アジア交易でイギリスやフランスに後れをとっていたアメリカからすれば、日本開国というアドバンテージを両国にとられることは避けたかったのです。
だからこそペリーは、アメリカの手で交渉を成功させるために「武力を盾にする」強硬手段を採ったのでした。
先に書いた通り「ペリーは粗野で好戦的な人物だ」という印象を持つ人もいると思いますが、実際は、そうした粗野で好戦的な態度を見せつけることも計算に入れた思慮深い戦略家だったのです。
リベリア建国の立役者そもそもペリーはどんな人物だったのでしょうか。彼は当時の西洋人と同じく、西洋=文明国、日本=半文明国という認識を持っていたのは間違いありません。
「ぺルリ提督の像」。昭和28年、ペリーの出身地であるロードアイランド州ニューポート市から親善の印に贈られた(港区)
そのため人種的な偏見を持っていたというイメージがありますが、そこまでゴリゴリに偏見で固まった人ではなかったようです。