足利尊氏は武家政権を樹立するつもりはなかった!?善意が裏目に出て南北朝の対立に至った経緯 (2/3ページ)
彼は建武政権下で、軍警察の最高責任者である鎮守府将軍として重用されています。
兄の死で偶然家督を継いだ尊氏にとって、北条家トップを超える地位につくなど、考えられなかったはずです。
また、この時代には足利家以外にも有力な源氏の家柄が多数あったから、お墨付きを与えてくれた後醍醐に感謝していたはずです。
『太平記』は、残党鎮圧後も尊氏が鎌倉に残留したことを謀反の根拠にしています。
しかし尊氏が帰京しなかったのは、関東の治安維持を優先したからだと考えられます。反乱は鎮圧したものの、彼は首謀者の北条時行をとり逃していました。よって治安が悪化するおそれがあり、すぐに帰京するのは危険だったのです。
ただ、尊氏の意図がどうあれ、尊氏謀反の噂が朝廷に舞い込むと、後醍醐は尊氏が謀反の準備をしているとみなし、尊氏の弁明を無視して討伐軍を派遣しました。
尊氏は恭順の意を示すために出家をして、戦いを弟の直義に任せています。しかし直義が敗走し続けたことで、尊氏はやむを得ず出陣。天皇の軍と戦わざるを得なくなったのです。
善意の天皇擁立北朝成立後、尊氏は後醍醐に京への帰還を求めました。南北分裂を解消するためです。
皇位継承の証である三種の神器は、後醍醐によって比叡山に持ち出されたため、光明は神器なしでの即位しています。