狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【前編】 (2/4ページ)

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幼少期の忠長は聡明で容姿端麗だったとされ、両親は将軍の後継にと意識していた可能性も否定できない。江が弟の忠長を溺愛した理由には、家光の乳母であった「春日局(かすがのつぼね)」との軋轢にあったと考えられている。2人の対立関係がそのまま家光と忠長の将軍後継争いに発展したという説もある。

将軍後継争いを巡っては、春日局が駿河にいる家康の元へ家光の将軍後継の承諾を得に赴いたという逸話が残っているが、それを裏付ける証拠はなく創作の域を出ない。

ただし、後継を決定する過程において何らかの形で家康の意向が働いた可能性は高いとされている。

忠長の父、徳川2代将軍徳川秀忠(Wikipediaより)

甲府藩主へ

将軍の後継争いは家光が指名される形で決着した。1616年、忠長は甲府23万8000石を拝領し甲府藩主となる。

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