狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【前編】 (3/4ページ)
忠長は一大名に列し、正式に将軍後継となった家光との立場の差は明確になった。
この時期の忠長について新井白石は自著である「藩翰譜(はんかんふ)」に以下のような記載を残している。
”1618年、12歳の折、忠長は自身が撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠に振舞った。秀忠は喜んだが、鴨が家光の居住地である西の丸の堀で捕らえられたものだと知った秀忠は、時期将軍である家光の居住区に鉄砲を撃ち込んだ忠長の行為に激怒した“
上述の記載は忠長が父・秀忠からの信頼を欠いた幼少期のエピソードとして取り上げられることが多いが、藩翰譜の成立は1702年であり、80年以上も後世に書かれた書物の信憑性には議論の余地が残る。
元服から「駿河大納言」へ1620年元服。正式に「忠長」と名乗った。同年、織田信長の孫である織田信良の娘「昌子」と婚姻。昌子は当時わずか齢10であった。
1624年には甲斐に加え駿河・遠江を加増され55万石の領主となり、周囲の大名からは「駿河大納言」の名で形容されるようになる。
この頃の忠長には、知行に不服で、すでに大御所となっていた父・秀忠に「100万石」か「大阪城」を要求して呆れさせたという逸話が残っている。
しかし1626年に「権大納言」となってからは、後水尾天皇の二条行幸の上洛に随行し、父・秀忠の落胤(隠し子)で異母弟だった「保科正之」と面会、家康ゆかりの遺品を譲ったりと、政務に邁進している様子がうかがえる。