鬼平・長谷川平蔵が奉行になれなかった理由。時の老中との微妙な関係が平蔵の運命を分けた【後編】 (2/4ページ)
そもそも、当時の火付盗賊改は臨時の兼任職であり、通常なら2〜3年で交代するものでした。この任を全うした者はその後、京都や大坂の町奉行や、奈良や堺の奉行に栄転するのが通例だったのです。
そうした通例に照らし合わせると、いくら働きぶりが目覚ましく他に代えがたいと言っても、平蔵が約10年も火付盗賊改を続けたのはちょっと異常です。
その理由は老中・松平定信にありました。実は、平蔵は定信から嫌われていたため出世できなかったというのが本当のところだったのです。
潔癖ゆえの嫌悪感ご存じの方も多いかも知れませんが、『鬼平犯科帳』の「礼「金二百両」」という話には、火盗改の資金不足を補うために平蔵の妻・久栄が母の形見の櫛を売ろうとするエピソードがあります。
実際、平蔵は資金繰りに悩まされていました。彼は無宿の更生施設である人足寄場の運営資金を補填するために、銭相場で稼いでいたといわれます。
ここで思い出してほしいのですが、当時の老中・松平定信という人は田沼意次時代の賄賂政治を批判し、清廉潔白な政治社会を目指した人でした。