非業の死を遂げた吉原遊女の霊を慰める「玉菊燈籠」とは?その始まりを紹介!【大河べらぼう】 (2/4ページ)
角町(すみちょう)にある中万字屋勘兵衛(なかまんじや かんべゑ)抱えの遊女となりましたが、あまり美人ではなかったのだとか(失礼な!)。
しかし性格のよさと多芸多才で人々から慕われ、その器量は吉原遊郭でも並ぶ者なしと評判を呼びます。
玉菊が得意としたのは茶の湯・生け花・俳諧・琴曲、中でも河東節(かとうぶし。浄瑠璃の一種)の三味線と拳相撲(けんずもう)の妙手でした。
拳相撲とは御座敷遊びの一種。単なる手遊びですが、彼女は黒いビロード(天鵞絨)に金糸の紋を縫い取らせた拳回しを作ったそうです。
要するにmyグローブですね。きっと彼女がこの拳回しを着けて勝負に挑むと、周囲から期待の歓声が上がったことでしょう。
大酒が過ぎて生命を落とす
玉菊は誰に対しても気さくに分け隔てなく接し、お客を断るにしても手厳しく振るようなことはなく、また歎ヶ敷(なげかわしき)心も起こさず真面目に勤めあげました。
そんな玉菊でしたが、彼女は大酒呑みとしても知られ、彼女を描く美人画はたいてい酒盃などが描き添えられています。
やはり吉原遊郭での暮らしにストレスが溜まっていたのでしょうか、20歳となった享保6年(1721年)、重病に伏せってしまいました。
この時は何とか平癒したものの、その後も酒はやめられなかったようで、享保11年(1726年)3月29日に25歳の若さで世を去ってしまったのです。
かくして浅草光感寺(東京都台東区松が谷)に葬られた玉菊。彼女のために袖を絞らぬ者はありませんでした。