「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【後編】 (3/4ページ)
中村氏は「中大兄が孝徳天皇の『皇太子』となっていることも虚構の可能性が高い」としています。
皇子が譲位を固辞したという『日本書紀』の記述は、入鹿暗殺の立役者を中大兄皇子にした「作り話」の一部にすぎなかったということです。
入鹿暗殺後に皇極天皇から軽皇子へ譲位することが決まっていたからこそ、譲位の手続きは慌ただしく行われたのでしょう。
「改新の詔」も創作か次に、大化の改新の中心である改新の詔ですが、これも現在は「後世に粉飾されたもの」という説が有力です。その根拠を整理しましょう。
まず、詔の4か条の中に、後世に制定された法典の文章と同一または類似する文章があることです。詔の第3条に田租に関する記述がありますが、これは701年(大宝元年)の大宝令や718年(養老2年)の養老令の文章と同一です。
また、詔の第2条に地方制度の郡に関する記述がありますが、「郡」という文字は当時まだ使われていませんでした。当時、木簡には「郡」にあたる文字が「評」と表記されていました。
従って、改新の詔は後世に作られたものであり、当時存在していたのかどうかも疑わしいとされているのです。
また、大化の改新で戸籍が作製されたと伝えられていますが、その実態は戸数調査程度だったのではないかという指摘もあります。