カリスマか逆賊か?気弱な貴公子か?令和の文芸作品にみられる将軍・足利尊氏の新しいイメージ (2/4ページ)

Japaaan

足利尊氏(Wikipediaより)

尊氏(前名は高氏)は八幡太郎源義家の子孫で、1305年に生まれました。鎌倉幕府が開かれて以来、足利氏は代々続く有力御家人で、尊氏も鎌倉に居住していました。

しかし、北条氏の専制政治に不満を持つ御家人が増えたことで、後醍醐天皇を中心に反幕府勢力が結集。尊氏や新田義貞も反幕府軍に加わって、1333年に鎌倉幕府を滅ぼしました。

鎌倉幕府が滅亡に追い込まれた明確な理由は不明なものの、おそらく元寇で蒙古軍を2度追い払った北条氏が、3度目の襲来に備えて要職を自らに近い者で固めたことで、御家人たちの不満が大きくなったのだろうとみられています。

ところが、後醍醐天皇中心の政治に反発した尊氏は離反し、独自に光明天皇を立てて、自身の政治方針を建武式目として発表しました。

後醍醐天皇は大和(現在の奈良県)の吉野に逃れて南朝を開く一方、光明天皇の北朝は38年、尊氏を室町幕府の初代征夷大将軍に任じています。

逆賊のカリスマ

こうした経緯から、尊氏は何代にもわたって仕えてきた鎌倉幕府を滅ぼし、さらには後醍醐天皇に弓を引いた逆賊とされてきました。

しかし彼は戦前の皇国史観教育で悪者にされてきただけ、ともみることができます。

鎌倉幕府を滅ぼしたのは反北条の御家人を代表して立ち上がったからであり、後醍醐天皇と戦うことになったのも、それまでの武士の慣習(土地の支配など)を無視されたためでもありました。いずれも尊氏の本意ではなかった可能性はかなり高いのです。

ともあれ、多くの御家人が尊氏に従ったのは、彼に人間的な魅力が備わっていたからでしょう。

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