【大河べらぼう】御三卿・清水家の栄光と断絶!徳川家治の弟・清水重好(落合モトキ)とは何者?その生涯を辿る (3/4ページ)
この時に傅役たちは家老と改称され、その家格が高まったのが分かります。
翌宝暦13年(1763年)の冬、伏見宮貞建親王女である貞子女王と結婚しました。
兄•徳川家治との関係は良好で、宝暦10年(1760年)から明和7年(1770年)までの10年間に清水重好の元を11回訪問しています。
しかし後に従弟の一橋治済(ひとつばし はるさだ)が台頭してくると立場は逆転。安永8年(1777年)に将軍世子の徳川家基(いえもと)が急死すると、治済の子•豊千代(のち徳川家斉)が天明元年(1781年)に家治の養子となりました。
そして天明6年(1786年)に家治が世を去ると家斉が将軍位を継承します。
将軍の弟でありながら将軍位を逃した悔しさは、いかばかりだったでしょうか。
将軍位へ見果てぬ夢?
清水重好が44歳となった天明8年(1788年)5月、幕府へ清水家に対する報告が入ったと言います。
「御取締り宜しからず候由」
御庭番・高橋恒成からの報告によると、清水家の家臣である長尾幸兵衛(ながお こうべゑ)が清水家の財産を私物化しているとのこと。
また『よしの冊子』では、長尾が田沼意次に対して三万両もの賄賂を贈り、清水重好を将軍位につけようと目論んだそうです。
果たして長尾の工作が事実かはともかく、奏功せず終わっています。
やがて寛政4年(1792年)閏2月13日に権中納言(ごんのちゅうなごん)へ昇進、清水と称しました。