「大河べらぼう」吉原の遊女とは対照的な最下級の娼婦…たった350円で春を売る「夜鷹」の実態とは?【前編】 (3/6ページ)
また、同じように路傍で客を引くが、自宅で売春する女たちもおり、こちらは辻子君(ずしぎみ)と呼ばれました。
そして、江戸時代になり、江戸の街に夜鷹が現れると、京都では辻君(つじぎみ)、大坂では惣嫁(そうか)・白湯文字(しろゆもじ)など夜鷹と同じような街娼が出現するのです。
夜鷹の揚代はたった350円だった江戸における夜鷹の巣窟として知られていたのは、本所吉田町や四谷鮫ヶ橋などの地域です。これらの地域には、大名の下屋敷や職人たちの長屋が立ち並んでいました。
夜鷹たちがこうした場所に集まったのは、人の数が多く、しかもその多くが下級武士や職人であったためです。
ハナ散る里は 吉田 鮫ヶ橋
この川柳は、江戸時代末期の夜鷹について詠んだものです。
「ハナ」は遊女(夜鷹)と鼻をかけ、「散る」は人生が散ることと鼻が落ちることに掛けています。
つまり、吉田・鮫ヶ橋には、罹患すれば鼻が落ちるような梅毒を患った女性が多く、その年代も10代後半の若年層はいたものの、40代〜60代の年増の遊女が多かったことを物語っているのです。