メディアが作った”偽の悪役”!徳川綱吉の側近・柳沢吉保が悪役にされた理由と「忠臣」としての活躍 (2/3ページ)
悪役に描かれた要因としては、吉保が館林藩主時代の綱吉の小姓組から、幕府政治に影響力を及ぼす立場にまで上り詰めた「成り上がり者」と見なされたことが大きいようです。その経歴が嫉妬されたんですね。
基本的に吉保は綱吉という将軍の側にいたため、諸大名は頭を下げざるを得ません。武家社会の階層秩序を乱す新興大名に権力を握られているというジレンマが、文芸作品の中で悪役像につながった可能性が高いと言えるでしょう。
では、そんな「作られた吉保像」が登場したのはいつからだったのでしょうか?
悪役像の登場それは綱吉が亡くなってすぐの1709年のことで、事実に脚色を交えた「実録物」に描かれたのが最初でした。
そこでは、「嫡男を綱吉のご落胤と称した」「女性によって将軍の心を乱し思うように出世した」など、ゴシップめいたお家騒動の話がまことしやかに語られました。
またそういうものを庶民も求めていたのでしょう。吉保に関するゴシップ本は貸本屋の主力商品となり、講談や歌舞伎の題材にもなっています。
すでに江戸期にも、学者の間では「これは事実ではない」との批判がありましたが、完全に打ち消されるまでには至らなかったようです。
そうした傾向は近代に入っても変わりませんでした。かの徳富蘇峰も、大正期に著した『近世日本国民史』の中で、綱吉に対する吉保のイエスマンぶりを「迎合学の大博士」として断じています。