「べらぼう」後に徹底排除される田沼意次(渡辺謙)!なぜ彼は”悪の汚職政治家”のレッテルを貼られたのか?【後編】 (3/6ページ)
[前編]で述べたように、家重の息子である第10代将軍・家治は、父・家重の政権が維持できたのは、田沼意次、松平武元(石坂浩二)、大岡忠相という三人の存在があったからだと語っています。
家重が将軍に就任した1745年、意次は26歳でした。この時期から吉宗が亡くなる1751年までの6年間、意次は政治の実務を通して吉宗の政治理念を懸命に学んだことでしょう。
一方、松平定信は、吉宗の死の6年後にあたる1759年に、吉宗の三男・宗武の七男として誕生しました。すなわち、吉宗の孫にあたります。
後に彼は「寛政の改革」を行うにあたり、祖父・吉宗の政治理念を強く意識し、それを手本として改革を進めました。
このように、徳川吉宗の政治理念は、意次や定信に多大な影響を与えました。
それでは、吉宗が行った「享保の改革」とは、どのような政治理念に基づいて実施されたものだったのでしょうか。
決して重農主義一辺倒ではなかった享保の改革徳川吉宗が行った「享保の改革」では、さまざまな政策が打ち出されましたが、ここでは主に経済政策に焦点を当てて取り上げます。